研究局 8月オンライン研究会の報告②

8月22日(火)zoom配信(配信拠点校:杉並区立高円寺学園小)にて行われた、オンライン研究会についてご報告します。

前回の記事とあわせてご覧ください。


◆石渡局員の発表(低学年)

子供が自分の行為をきっかけに小さな発見をする姿に迫るために、感覚を研ぎ澄ますような「見る」「感じる」体験のある題材(2年生・鑑賞する活動)を設定した。

注目したのは毛細管現象。コーヒーフィルターに垂らしたインクの形や色が変化する様子を鑑賞し、子供たちに今まで見たことのない形や色の不思議さや面白さを発見させたいと考えた。

活動に合わせて場の設定も工夫した。机上に半透明のプラダンを敷き、形や色がはっきり見えるようにした。

~Sさんの行為「見る」から~

ピンク色と緑色のインクが動く速さの違いに気付くと、「緑がピンクを追い越した!」と、とても驚いていた。色によって変化に違いがあるのか、分離した色がどのように伸びていくのかなど、自分なりの視点をもち、何度も色の変化を観察しようとしていた。

~Hさんの行為「試す」から~

初めは示範に忠実に単色で模様を描く活動をしていたが、色数を増やしたらどうなるか、一度に沢山つくってみたらどうなるかなど、様々な方法を試そうとした。後半は、自分の活動全体を眺めて満足そうに笑顔になっていた。活動の展開によって、子供の気持ちが変化していたことがわかる。

~Kさんの行為「イメージをもつ」から~

青いインクの広がった紙を見て、「これ、海みたい!」と声を上げていた。その後、自分のつくったものを並べながら、「僕のつくったものは、自然っぽい色が多いな。」とつぶやいていた。授業後に図工室に残り、「ねえねえ、これって森の中の夕日みたいでしょ。」と大事そうに眺めていた。

~Yさんの行為「価値付ける」から~

ペンの動かし方や色の組合せ方を試すことで、色々な効果が出せると早くから気付いていたYさん。並べたものを見ながら「美術館みたいになってきた!」と教えてくれた。美術館のように感じたのは、Yさんが行為を調整しながら、自分なりに価値のあるものをつくろうとしていたからだと捉えている。

題材を通して、形や色が動き、変化する不思議さや面白さを感じる力が子供たちの中に生まれた。子供は日常生活でも形や色の変化を楽しんでいる。題材として取り出すことで、子供の感じていることが分かり、リアルタイムで反応していけるよさがあった。

◆質疑・応答

内村:低学年にとって、発見というテーマは相応しい。形や色の変化に感動して、発見して、繰り返し味わう姿。子供がやっている狭い範囲のことに注目して題材を設定していると感じた。子供たちの心の動きを残したり、伝えたりするために、どんな工夫があったか。

石渡:低学年の子は、何か見付けた時に誰かの反応が欲しいんじゃないかなと思う。 カメラでパシャっと一枚撮ってあげるだけでも子供は嬉しい。会話ができるなら、そこで会話もする。活動後、並べたものがその子のものだとわかるようにしたいと思い、場の設定も工夫した。

◆石賀先生の講評

余白の話につながるが、子供の「なぜこんなことしてるんだろう」というところをどう捉えるかが大事だと思う。好奇心には、いかがわしさとか、危なっかしさとか、そういうのもちょっと入っている。好奇心のエネルギーはすごい。インクの色が広がって、バーっと混ざっていく、「これやったらどうなるんだろう」っていうものが好奇心である。よくないことをやっているという気持ちも絶対あるが、それでもやってみたい気持ちが勝る。そんな子供がもつ力みたいなものにいかに触れていけるか、もっと研究したり試したりしていい。そういうのがなかなかできない時代だから。子供がやりたいことを造形の中で認めていくことで、現代社会のトレードオフをちゃんとする。 図画工作には、そういう役割もある。


◆石賀先生からの全体を通した指導、12月の大会授業につながるお話


「+×もしくは-÷」


という謎めいたキーワード。なんだと思いますか?


種明かしをすると、ある作品展のタイトルである。「+×もしくは-÷展」。社会福祉法人友愛学園成人部によるもの。この作品展のタイトルに込められた意味を話したい。

作品展のリード文には、「この作品展は、友愛学園成人部利用者の創作物と、それらがここに並ぶまでの経緯を提示する形式により行われます。作品展タイトルにある+×もしくは-÷とは、利用者の創作活動に対する支援による介入、働きかけの結果、発生する創作物の形態・状態・構成等の変化を意味しています。」とある。

場合によっては、働きかけが思わぬ相乗効果を生むが、その逆もまた然りということ。我々で言うと、教員の子供たちに対する関わり。それは+×もしくは-÷のどっちもあるということ。

抽象的なので、具体例を一つ。

友愛学園成人部のある利用者が作品をつくっている。ものすごく細かく丁寧に丁寧につくっていく。はたから見ても素晴らしい作品。けれど、その人は最後に作品を全部びりびりに破いてしまう。関わっている職員は、「もったいない」「このまま展示したら、この人がすごい評価される」「あの人はこんなのつくれるんだ、すごいね、素晴らしいね」と言われるだろうと思ってそれを取り上げた。すると利用者はものすごい悲しそうにしたという。その人から作品を取り上げるべきだったのか?どうだろう?その人は作品をびりびりに破ると満面の笑みだという。皆さんだったらどうされるか。

明らかに、その作品は大人の側というか、社会の側から見ると素晴らしかった。評価に値したり、こちら側のねらい通りだったりする。でも、本人にとってはそれをびりびりに破ることが自分自身のウェルビーイングであり、その人の表現なのである。作品を取り上げるということが、+×なのか、-÷なのか、とても難しい。我々が介入する図工の授業では、+とか×を求めてやる。でも、我々の関わりがもしかしたら-や÷になっているという場合ももしかしたらある。それは宿命みたいなもの。全部背負って、+や×をやったり、時には-や÷になるかもしれないこともやっていく。「+×もしくは-÷」には、教員と子供の図工の時間の関係が表れていると思う。

学習指導要領とか教育の目標・目的みたいなことで言うと、教育は+や×をすごく全面に出しているものである。+×がすごく大事で、-÷をいかに減らしていくかっていうことに目が行く。-や÷がなくなるようにするためにはどうしたらいいか、と考えると思う。

しかし、そうではなく、プラスもマイナスも全部包み込んで行うことが学校教育の中で僕らに残された大事な価値なのではないだろうか。先ほどの例で言えば、作品をびりびりに破いたあとの、空っぽなものを展示するというようなことができればいいけれど、そこまではなかなかできないと思う。そこで大事になるのがプロセス。表現のプロセスでその子が何を感じたのかということは絶対に伝えるべきだと思う。それが、難しいけれど大事だと思う。

作品をびりびりに破ることがその子の表現だとしたら、その作品を取り上げることは、「その子のため」と言いながらその子の望まないことをすることになる。

「光のカサナリウム」で言えば、「光をかざした時にきれいに見えるものをつくろう」という中で、光にかざさない部分に魅力を感じた子に、「今日はこれじゃないよ。違うよ。」と言いたくないよね、ということ。

こういうことはいくつもあると思う。だからこういうことを「図工の余白」としてどう考えていくのかということにもつながると思った。

図工の授業の円の中心部に、僕らが目標として示すものがある。目標と示しつつも、材料と子供の経験、思考、時間、場所の要因から、かなり広く活動が広がっていく。目標外の活動は、一瞬ねらいから外れているようにも見えるが、材料と子供の経験、思考、時間、場所があればこういうことが起こるんだということは事実だと思う。そこで、目標外の活動を削っていこうとすると、授業そのものがどんどんつまらなくなっていく可能性がある。それはやりたくない。となると僕らができることは、目標の部分を広げていく、活動に合わせていくことではないだろうか。そこに研究の余地みたいなものがある。許容範囲を狭くして、オートマチックに同じようにできる授業があれば、許容範囲を広くして、何をしてるかよくわからなくなる授業もある。材料があって、子供がいて、そこに教師が介入していくかどうか。その介入によって+になったり×になったり、-になったり÷になったり。僕たちはそういう存在なんだということ。図画工作のもつ、揺るぎない豊かさ、他人と関わりながら表現していくということなのかな、と思う。

先ほどの利用者さんの話で言えば、利用者さんにとっては描いたものを破ることが自分自身の幸せであり、今日一日の満足につながる。一方で、取り上げて飾ることで褒められることは、利用者さんも嬉しくなると思われることだから、そのまま破らせるか取り上げるかは迷うところだと思う。長い目で見ると、これは本当にマイナスなのか?悪いのか?ということ自体も、考えていく必要もあるかもしれない。

余白の話に戻るが、「ねらった部分の活動」と「そうでない部分の活動」等と、図画工作の授業をコンテンツ化しないようにしたい。コンテンツ化というのは、いつどうやってもこうなるという、再現性が高いということ。常に迷ったり考えたり、みんなで集まって相談したりしながら、一回一回の研究とか発表とかに向き合っていくことはすごく大事。今日の皆さんの発表を聞いて、あらためて思った。

以前杉並で話をして我ながらよいことを言ったなと思ったのが、「みんながすごく喜ぶ授業」っていうのは、危ない感じがする、という話。変な成分が入っていそう。瞬間的に全員をそういう風にさせる強い薬物みたいなものが入っていて、そういうものばかり子供に与えすぎるとよいことはないのではないか、と思う。だから、自分で楽しみを見付けるといったことは、時には歩留まりが悪かったり、よくわからなくなったりもしてしまうが、大切だと思う。

先生方のように、毎日長い時間をかけてじっくり育てていくタイプの図画工作には、「一回の授業で今ここで何が得られたか」と極端に狭く結果を求めすぎないほうが良いと思う。

題材の正解を求めすぎず、-とか÷ということに怯まず頑張っていただきたいと思うし、応援したい。


以上で、オンライン研究会の報告を終了いたします。

東京都図画工作研究会

TOKYO ZUKO EDUCATION